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2018年6月のシスターコーナー(シスター小野島のブログです) [カトリック教会]

6月に入って、冬の間放置していたバラの小さな鉢植えとセントポーリナの小さな鉢植えが,びっくりするように沢山の花を咲かせました。秋まで花を見せてくれ、もう終わりだと思って、セントポーリナは教会の私の執務室の窓際に、バラは住まいのテラスに置いた台の上にしばらく放置し、その後、週に一度くらい水を上げていました。長い沈黙の後、水を上げるのを忘れていたとはっと気付いて、鉢を見るときれいなつぼみが沢山見えてビックリポン!

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10年以上前に鹿児島のいとこと話したことを思い出しました。彼は私より5歳くらい若いのですが、観葉植物を育てるのが好きで、家に大きな温室を持っていて、きれいな花をたくさん育てていました。どうしたらあんなにきれいに育つのか聞いた時、「簡単だよ。冬の間、放置すること。植物は、危機感を抱いて、子孫を残そうとするから!」と言ったのです。確かに思いがけないほどのつぼみを付けているのです。

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それを思い出し、今きれいな可憐に咲いている小さなバラとセントポーリナの花を眺めて、自分の苦しい時の体験と結びつきました。自力で、困難を乗り切る為には、祈るしかない。その祈りの中で内なる力で熟成される恵みの体験を思い出します。頭の作業ではなく、上から注がれるエレルギーによって熟成されるのを待つことが大切ですね。DNAの中に埋め込まれた命に向かう力によって、生きる道をはっきりと選び取り、内なる力に信頼して時が来るのを待つこと、そして、どんな現実が起きても内に秘められている上からの力に信頼して身を任せたいと思います。

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サボテンの一種のアロエのような植物も、水のない砂漠で子孫を残すように、執務室の窓辺で、根っ子に可愛い新芽をだしています。世話をされ過ぎると内なる生命力が衰えて外の世話に頼り過ぎると死んでしまうでしょう。私達も同じかも…。自分の中に与えられている力を放置して他者に頼ると、誰かの勢で幸不幸が決まると錯覚して自滅への道へ向かうのではないでしょうか?自立出来るのに他者に頼ると、頼られる方もずっしりと重く感じて担いきれません。頼る方も満足するような受け入れが無くて心地悪くて、不平ばかりになるでしょう。時には外からの世話が的確でな
く、内にある命を絶つようなものになり、根腐れして死んでしまいます。

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小さな植木も、冬を越すのにしっかりと自分の中に秘められた力に任せて、花を付け、咲かせる準備をして時が来るのを待ったことでしょう。誰も代わって、冬を越してあげられないし、体内の力を発揮してあげられません。しっかりと今の姿に死んで、大地の中で新しい命の誕生への歩みを
その命自身が頑張るしかありません。既に体内に埋め込まれたエネルギーであるDNAを信じて身を任せる歩みです。

私達の信仰の歩みも似ているのではないでしょうか?世の価値観ではなく、キリストの道を歩む為に、霊の導きを識別しなければなりません。これは簡単ではありません。教会共同体での識別が必要です。気の合った人だけでは識別は出来ません。洗礼によって共同体に招かれた私達は、自然性に留まることは出来ません。自分のエゴに死に、キリストの招きに応えるのですから。エゴに死ぬのは簡単ではなく、自分が理想とする自分の描いている「神のイメージ」にも、自分の夢にも死ぬ道です。御父の夢である「全人類の救い」の為にご自分の血の最後の一滴までも惜しまず、ご自分を捧げられたキリストに従う為です。意見が一致しないからと言ってあきらめることは出来ないのです。共同体の中での衝突も、何か意味があります。

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聖霊によって示されることを皆で追い求め、途上で、自己の持つ偶像を壊される必要があります。もっとでっかいキリストの理想に招かれているのです。日々、自分の十字架を担ってキリストに従う道がそこにあります。各自が持つ偶像も壊されて、自由になって霊の識別が出来るように。

今月は、「イエスのみ心」の祭日を祝い、翌日には、「聖母のみ心」の祝日を祝いました。イエスを聖霊によって身ごもった聖母は、「未婚の母」となり、多難な人生の中で、神の導きに全面的に信頼して歩まれ、最後は、死刑囚の母としてイエスを見送りました。聖母はイエスの誕生から
十字架上での死を看取るまでイエスに同伴し、理解に苦しむ現実に直面する中で、「母はこれらのことをすべて心に納めていた」と福音書にあるように、御父への信仰を生き抜かれ、今は、その道を私達が歩めるように、取次をして下さっています。私達も今こそ招かれた共同体で生きる為の現実を信頼の内に受け入れて、「神にはお出来にならないことは何もない」と言った天使の言葉を信じて生きられた聖母に倣って生きてゆきたいですね。

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   援助修道会の創立者が愛した「み摂理の聖母」







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