2019年2月のシスターコーナー(シスター小野島のブログです) [カトリック教会]
クリスマス以前にブログ更新をして以来、御無沙汰しました。大洲への引越しにエネルギ
ーを使って、少々疲れ、クリスマスを迎えて直ぐに、どっと疲れが出て食べられなくな
り少し良くなった頃、お正月を迎え、そのすぐ後に又胃腸障害を起こし、どっと疲れに襲
われ快復に時間がかかりました。今やっと食べられるようになり通勤が楽になりました。
バスを待つのが寒く感じられ、新年になってから、朝は徒歩通勤、夕方の帰宅はバス通勤
を試みています。50分歩くのが体を元気にしてくれる気がします。寒い時、立っているよ
り、歩いている方が楽ですね。
1月20日には、幟町教会で例年、「サントニニヨ」の祝いをしますが、スペインがフィリ
ピンのセブ島に上陸してきた時、降服した酋長に、幼子イエスのご像を持って宣教者達
が一緒に上陸し、フィリピン人への贈り物としたことを記念して、今もなおフィリピン
全土で、各家族が大切にしている「幼子イエスのご像」を教会に持ちより、ご像を毎年
祝別して貰い、家内安全のシンボルとして持ち帰ります。サントニニヨのご像が置かれ
たテーブルの下に潜り込んだダブルの子・トーイ君には何が見えているのだろうか?
一月には、台湾で生まれた息子を連れて帰国しためぐみちゃんと再会しました。息子は
台湾生まれ、私は、坊やに「私も台湾生まれよ」と話しました。まだ理解できない坊や
に言ったのです。人間皆どこで生まれるか自分で決められない。その後どこの国籍にな
るかも、親の都合で決まります。
1月の初め頃、修道会の用事があって、東京へ行きました。この数年、名古屋にいる友人
の健康を心配していました。機会が訪れれば、見舞いたいと思っていたので、チャンス
だと思いました。フィリピン時代にマルコス独裁政権下で人々が苦しんで居た頃、ラジ
オベリタス(アジア司教団の持つラジオ局で情報制限を受けている国の人々にも真相を
人々に伝える使命を持つラジオ局)で働いていた女子パウロ会のシスターぺルピンとは、
草の根の人々と共に生きていた私は、貧しい人々がどのように福音を生きているかを分
かち合い、支え合っていました。もう一人、医療支援をしていた看護士さんの初枝さん
とも支え合っていました。彼女は内戦による戦場のような地の野戦病院のような所で貧
しい人々の医療支援者として、ルソン島北部やミンダナオの南端の僻地で働き、種類の
違うマラリアにそれぞれの地で掛かり、再起不能になるほどの重症を負い、後に日本に
健康上の理由で戻ることを余儀なくされました。私たち3人は帰国してからもずっと時々
東京で分かち合いを続けました。分かち合う事が沢山あり「帰国子女」としても支え合
うことが出来ました。ぺルピンが体を壊し名古屋に転勤になり、東京で会うことが出来
なくなり、気になっていましたが、今回の私の上京の機会を利用して、初枝さんも東京
から一緒に名古屋まで来てくれるとのことで本当に夢のようなトリオの再会が実現しま
した。ぺルピンは手押し車で外出出来るまでのリハビリに専念しました。彼女を迎えに
行って、タクシーでレストランに行き、初枝さんが予約してくださったフランス料理を
ゆっくり戴き、積もる話は尽きず。半日を共に過ごし、わたしが上京する機会があるの
で、3月の再会を約束。3人共にそれぞれの現場で命がけの日々を過ごした独裁政権下の
フィリピンでの生活体験は、今も人生の宝物となっていて、宣教精神の基礎として思い
出されます。
大洲に来てから、朝食の時、援助修道会のシスター達に会う機会がありましたが1月25
には、その内の3人の姉妹が、特別養護老人ホームに移動しました。3人とも、私には思
い出の多い先輩達ですから寂しいです。彼女達の歩みは私もやがて行く道です。修道会
で最期を過ごせる時代ではありません。若い会員は断然少ないのですから昔のようにす
べての修道院で共同体生活を最後まで出来るとは限りません。公会議後に人々の近くに
生活する為に、小さな共同体をあちこちで始めましたが、そんな途中で、使徒的理由だ
けでなく、大きな修道院の営繕管理も難しくなり、閉鎖して、使徒職を続ける為に、
マンションでの小さな共同体生活もあちこちで始めました。少ない人数ながら若い会員
の召し出しに応えて、彼女達の使徒職の為に、大きな修道院から彼女達を解放する為に
色々な試みをしてきました。そして今、高齢会員は公的なケアハウスで、生活を続けて
います。私も、マンション生活からこのケアハウスに移り、使徒職を続けています。
老いを恵みとして生き抜けるように、ここでの体験は、教会での宣教生活で大いに分か
ち合える体験で、老いを担って本人も家族も苦しんでいる人々をもっと思い合える為に
いただいているのでしょう。老いは病気ではなく、一つの完成に向かうチャレンジです。
未知の次の段階への招待でもあると感じます。記憶を失っていく姉妹達の剽軽なユーモ
アのある応答にほっとさせてくださる程に暖かさを感じます。先輩達は、人生の異なる
側面を生きて証しして下さっていると感じます。
二月早々の来客は昔「親達の分かち合い」に来ていた聖母幼稚園に二人の子供を通わせ
ていた母親とその娘と孫。本当に懐かしい再会でした。娘のナホちゃんは結婚して北海
道に住んでいて、実家の松山に息子を連れて帰省中で、母、娘、孫と3代揃って日帰りで
広島へ会いに来てくれたのです!感激の再会でしたが、食いしん坊のナホが、幟に来る
直前に大好きな牡蠣を食べたばっかりに、凄いアレルギーで、幟町教会で嘔吐し続けま
した。苦しそうで、本当にかわいそうでした!他方、孫は眠り続けていて抱っこも出来
ず。昔の分かち合いクラスの仲間達とのお喋りも出来ずに、病院探しをしたり、結局高
速艇で、四国に戻ることに!聖母幼稚園時代から慌ただしいグループだったので、今も
変わらないと感じました!「リベンジ」に又来てくれるとか!ちょっと顔を見ることが
出来ただけでも感謝!来てくれてありがとう!
もう一人の1月の来訪者は、ルワンダの教育を考える会のマリールイーズさん!毎年、広
島の数か所で講演の為に招かれて来広する時、いつも連絡してくださり、再会します。
今年は、私が幟町に住んでいないので、ホテルに迎えに行き、幟町教会の私のオフィス
で落ち着いてお喋りできました。彼女はいつものように精力的に全国を回り、正に福音
の喜びを伝える使者としてお喋りが弾みます。彼女は次の日に神戸に講演に行くので、
六甲修道院を訪問したいと。日本での生活を始めた頃にお世話になったシスターが今は
六甲で介護を受けているので見舞い、フランス語で語り合えたと写メを送って喜びを伝
えてくださいました。認知症になっても流暢にフランス語で話せる私の修練長に乾杯!
ーを使って、少々疲れ、クリスマスを迎えて直ぐに、どっと疲れが出て食べられなくな
り少し良くなった頃、お正月を迎え、そのすぐ後に又胃腸障害を起こし、どっと疲れに襲
われ快復に時間がかかりました。今やっと食べられるようになり通勤が楽になりました。
バスを待つのが寒く感じられ、新年になってから、朝は徒歩通勤、夕方の帰宅はバス通勤
を試みています。50分歩くのが体を元気にしてくれる気がします。寒い時、立っているよ
り、歩いている方が楽ですね。
1月20日には、幟町教会で例年、「サントニニヨ」の祝いをしますが、スペインがフィリ
ピンのセブ島に上陸してきた時、降服した酋長に、幼子イエスのご像を持って宣教者達
が一緒に上陸し、フィリピン人への贈り物としたことを記念して、今もなおフィリピン
全土で、各家族が大切にしている「幼子イエスのご像」を教会に持ちより、ご像を毎年
祝別して貰い、家内安全のシンボルとして持ち帰ります。サントニニヨのご像が置かれ
たテーブルの下に潜り込んだダブルの子・トーイ君には何が見えているのだろうか?
一月には、台湾で生まれた息子を連れて帰国しためぐみちゃんと再会しました。息子は
台湾生まれ、私は、坊やに「私も台湾生まれよ」と話しました。まだ理解できない坊や
に言ったのです。人間皆どこで生まれるか自分で決められない。その後どこの国籍にな
るかも、親の都合で決まります。
1月の初め頃、修道会の用事があって、東京へ行きました。この数年、名古屋にいる友人
の健康を心配していました。機会が訪れれば、見舞いたいと思っていたので、チャンス
だと思いました。フィリピン時代にマルコス独裁政権下で人々が苦しんで居た頃、ラジ
オベリタス(アジア司教団の持つラジオ局で情報制限を受けている国の人々にも真相を
人々に伝える使命を持つラジオ局)で働いていた女子パウロ会のシスターぺルピンとは、
草の根の人々と共に生きていた私は、貧しい人々がどのように福音を生きているかを分
かち合い、支え合っていました。もう一人、医療支援をしていた看護士さんの初枝さん
とも支え合っていました。彼女は内戦による戦場のような地の野戦病院のような所で貧
しい人々の医療支援者として、ルソン島北部やミンダナオの南端の僻地で働き、種類の
違うマラリアにそれぞれの地で掛かり、再起不能になるほどの重症を負い、後に日本に
健康上の理由で戻ることを余儀なくされました。私たち3人は帰国してからもずっと時々
東京で分かち合いを続けました。分かち合う事が沢山あり「帰国子女」としても支え合
うことが出来ました。ぺルピンが体を壊し名古屋に転勤になり、東京で会うことが出来
なくなり、気になっていましたが、今回の私の上京の機会を利用して、初枝さんも東京
から一緒に名古屋まで来てくれるとのことで本当に夢のようなトリオの再会が実現しま
した。ぺルピンは手押し車で外出出来るまでのリハビリに専念しました。彼女を迎えに
行って、タクシーでレストランに行き、初枝さんが予約してくださったフランス料理を
ゆっくり戴き、積もる話は尽きず。半日を共に過ごし、わたしが上京する機会があるの
で、3月の再会を約束。3人共にそれぞれの現場で命がけの日々を過ごした独裁政権下の
フィリピンでの生活体験は、今も人生の宝物となっていて、宣教精神の基礎として思い
出されます。
大洲に来てから、朝食の時、援助修道会のシスター達に会う機会がありましたが1月25
には、その内の3人の姉妹が、特別養護老人ホームに移動しました。3人とも、私には思
い出の多い先輩達ですから寂しいです。彼女達の歩みは私もやがて行く道です。修道会
で最期を過ごせる時代ではありません。若い会員は断然少ないのですから昔のようにす
べての修道院で共同体生活を最後まで出来るとは限りません。公会議後に人々の近くに
生活する為に、小さな共同体をあちこちで始めましたが、そんな途中で、使徒的理由だ
けでなく、大きな修道院の営繕管理も難しくなり、閉鎖して、使徒職を続ける為に、
マンションでの小さな共同体生活もあちこちで始めました。少ない人数ながら若い会員
の召し出しに応えて、彼女達の使徒職の為に、大きな修道院から彼女達を解放する為に
色々な試みをしてきました。そして今、高齢会員は公的なケアハウスで、生活を続けて
います。私も、マンション生活からこのケアハウスに移り、使徒職を続けています。
老いを恵みとして生き抜けるように、ここでの体験は、教会での宣教生活で大いに分か
ち合える体験で、老いを担って本人も家族も苦しんでいる人々をもっと思い合える為に
いただいているのでしょう。老いは病気ではなく、一つの完成に向かうチャレンジです。
未知の次の段階への招待でもあると感じます。記憶を失っていく姉妹達の剽軽なユーモ
アのある応答にほっとさせてくださる程に暖かさを感じます。先輩達は、人生の異なる
側面を生きて証しして下さっていると感じます。
二月早々の来客は昔「親達の分かち合い」に来ていた聖母幼稚園に二人の子供を通わせ
ていた母親とその娘と孫。本当に懐かしい再会でした。娘のナホちゃんは結婚して北海
道に住んでいて、実家の松山に息子を連れて帰省中で、母、娘、孫と3代揃って日帰りで
広島へ会いに来てくれたのです!感激の再会でしたが、食いしん坊のナホが、幟に来る
直前に大好きな牡蠣を食べたばっかりに、凄いアレルギーで、幟町教会で嘔吐し続けま
した。苦しそうで、本当にかわいそうでした!他方、孫は眠り続けていて抱っこも出来
ず。昔の分かち合いクラスの仲間達とのお喋りも出来ずに、病院探しをしたり、結局高
速艇で、四国に戻ることに!聖母幼稚園時代から慌ただしいグループだったので、今も
変わらないと感じました!「リベンジ」に又来てくれるとか!ちょっと顔を見ることが
出来ただけでも感謝!来てくれてありがとう!
もう一人の1月の来訪者は、ルワンダの教育を考える会のマリールイーズさん!毎年、広
島の数か所で講演の為に招かれて来広する時、いつも連絡してくださり、再会します。
今年は、私が幟町に住んでいないので、ホテルに迎えに行き、幟町教会の私のオフィス
で落ち着いてお喋りできました。彼女はいつものように精力的に全国を回り、正に福音
の喜びを伝える使者としてお喋りが弾みます。彼女は次の日に神戸に講演に行くので、
六甲修道院を訪問したいと。日本での生活を始めた頃にお世話になったシスターが今は
六甲で介護を受けているので見舞い、フランス語で語り合えたと写メを送って喜びを伝
えてくださいました。認知症になっても流暢にフランス語で話せる私の修練長に乾杯!
2019-02-04 21:26